「ついたぞ」
とお父さんに揺すられて目を覚ました。
じっと座っているうち、いつ間にか眠ってしまっていたのだろう。
僕は少し寝汗をかいていてシートベルトの圧迫感が気持ち悪かった。
車から降りると日中の駐車場は蒸し蒸しと暑く、すぐにだらだら汗が流れた。
蝉の声を聞きながら木陰をくぐると病院の白い建物が見えた。
あれは小学三年生の頃だったか。
夏休みも半ばを過ぎるかというちょうど今ぐらいの時期、
私は初めて両親と一緒に、病気で入院をしている田舎の祖母の見舞いに行ったのだった。
両親ははっきりとは言わなかったが、祖母の先がそう長くはないのだということが、
二人の雰囲気からしてまだ子どもだった私にもなんとなく分かった。
病院のロビーはクーラーが効いていて涼しかった。
その心地よさに一瞬ふっと気が緩んだけれど、こんなに大きな病院に来るのも僕は初めてで、
なんだか別世界に連れてこられてしまったような気がして、その涼しさが急に怖くなった。
暑くてもいいから元の世界に戻って、すぐにでも車で家へ帰りたい気持ちだった。
病室のベッドに横たわった祖母にそれまでのふっくらとした印象はなく萎れたようで、
鼻や腕からいくつも管が伸びたその姿に幼い私はより一層の不安を覚えた。
「見る影もなく」と思えればむしろ良かったのかもしれない。
しかし、かつての祖母の「見る影」は確かにそこにあって、
だからこそ私にはそれが現実なのだと分かって恐ろしかったのだと思う。
部屋の中も涼しくて妙に居心地が悪かった。
ベッドの上のばあちゃんは目をつぶってじっと動かずにいたので、
僕はもしかして死んでしまっているのかと思ったけれど、お父さんが声をかけるとゆっくり目を開けて、
「ああ、ユウジか」
とお父さんの下の名前を呼んだ。そしてお母さんと僕の方を見て、またそれぞれ下の名前を呼んだ。
僕にはそれが何かを確かめているように聞こえた。
祖母はやはり元気がなさそうだったが、
それでも父と母が話しかけると笑ったような顔で、うんうんと相槌を返していた。
私はといえば、どう話しかけたら良いものか分からず黙っていた。
病室に漂う薬くさいような独特の臭気が、自分の知っている祖母の匂いとはあまりに違っていて、
努めて口で呼吸するようにしていたのを覚えている。
お父さんとお母さんが、お医者さんと話すことがあるからと出ていって、僕とばあちゃんは部屋に二人きりになった。
それでも僕は何も言えずに下を向いて座っていた。頭の中がずっとぐるぐるしていた。
ふいにばあちゃんが、
「シェミがないてら」
と言った。
顔を上げてよく聴くと、締め切られた窓の向こうで遠く、確かにセミが鳴いているようだった。
僕は「うん」と言った。
ばあちゃんは「なぁ」と言って笑っていた。
「着いたぞ」
と後部座席の娘を起こす。娘は寝ぼけ眼で「ううん」と身をよじった。
あれから二十年近くが経った。
あの夏もこんなに暑かっただろうか。今の私には断片的な記憶しかない。
「ちゃんとひいばあちゃんに挨拶するんだぞ」
心ここに在らずといったふうの娘に声を掛けつつ、蝉時雨の降りしきる中、家族三人で汗をかきかき石畳を歩く。
炎天下と形容するに疑いない空の下。
蛇口を大きく捻って手桶を満たす時、腕に跳ねた水の冷たさが心地よかった。
墓前で両手を合わせて目を閉じると、ふいに蝉の声が遠くなり、祖母の笑顔が脳裏に浮かんだ。
祖母が何か言った気がした。
なんだかとても懐かしい気持ちになって、
僕も少し笑った。